家庭教師 大阪の詳細
長いこと世界各地をまわって環境問題を追ってきたが、1980年代も末になって各国で盛り上がってきた「地球環境」への関心は、予想をはるかに上回るものだった。
だが、冷静に振り返ってみると、これは3度目の環境ブームである。
60年代末から世界的に高まってきた公害反対の運動は、70年に入ると日本でも深刻な社会的問題にまで発展してきた。
世界を覆い、国内でも全国のすみずみまで広がった運動は、1972年の「国連人間環境会議」で頂点に達したが、その翌年には石油ショックに足をさらわれて、ブームもあえなくしぼんでしまった。
70年代後半になって、再び国有林の伐採反対など自然保護運動が盛り上がってきたが、それも79年の第2次石油ショックで下火になってしまった。
むろん、一次、2次のブームが去ったあとも、地道な根強い環境保護運動はあった。
ただ一般の関心が遠ざかったところで、地球の環境はじりじりと悪化の道をたどっていた。
環境問題が「公害」と呼ばれていた当時は、特定の工場の排水や排煙で付近住民が被害を受ける、あるいは国有林の伐採や観光道路でその一帯の野生動植物が姿を消す、鉄砲水などの自然災害が増える、という地域的な環境問題だった。
だが、その地域が刻々と広がり、気がついてみると地球的な規模にまで拡大していた、というのが、最近の「地球環境ブーム」の背景にある。
あれから、20年。
もしも、公害ブームを受けて、国際社会や日本がこの問題に真剣に取り組んでいたら、これほどの環境の悪化を招かなくてもすんだのではないかと思うと、環境問題を報道し続けてきた者の一人として悔いがつのる。
フロンガスによるオゾン層の破壊が、最初に米国の科学者によって警告されたのは1974年のことだった。
それから間もなく、米国でフロンガス入りのヘアスプレーなどのボイコット運動が起きて、1979年には禁止されたが、日本ではほとんど反応らしい反応がなかった。
南極上空でフロンガスが原因とみられる「オゾン層の穴」が発見されたのは、この警告から8年後の1982年。
皮肉にも、発見したのは日本の研究者だった。
当時、ハワイの観測所で続けられていた大気中の二酸化炭素の連続測定は、開始後10年余を経過して、異常な増加ぶりは科学的にも裏づけられていた。
いずれ、この増加が地球全体の温暖化を招くことも心配されていた。
なぜ、そのとき世界はこの化石燃料の大量消費を抑制する努力を始めなかったのだろうか。
そうすれば、これほどまでに異常気象の頻発や海水面上昇の恐怖に脅えなくてもすんだかもしれない。
毎秒、東京ドームほどの面積が消えている熱帯林も、20年前ならまだ破壊をスローダウンさせる術はあったはずだ。
毎年、日本の農地面積(約540万ヘクタール)ほどが不毛の荒れ地に変わっていく砂漠化の問題も、あのときに植林を開始していればその木々は大きく育って、しっかりと砂漠の侵入を食い止めていたことだろう。
DDTやPCBなどによる化学汚染への対策をしっかりとっておけば、今日のように北極から南極にまで汚染を広げなくても、すんだかもしれない。
あれから、私たちはどれだけの種類の化学物質を新たにつくり出し、それに「公害物質」のレッテルを貼ってきただろうか。
20年前といえば、酸性雨の被害が北欧で顕在化してきたころだ。
ただ、その原因をめぐっては酸性雨の原因物質の排出源とされるイギリスや西ドイツと、北ヨーロッパ諸国との間で激しい論争が展開していた。
今になってみると、当時の不安はことごとく的中していたばかりか、今ではヨーロッパ全域はおろか、中国やブラジルなどの開発途上国にも被害は及んでいる。
こうしてみると、この「失われた20年間」は人類の将来に決定的な禍根を残すことになるのかもしれない。
同時に「10年後」に対する反面教師でもあろう。
いずれにせよ、今この現在の地球環境への意識の高まりをどう現実の対策に向けるか、おそらく地球にとって最後のチャンスと考えた方がよいだろう。
ただ、残念なことにこれだけ「地球環境」への関心が高まりながら、多くの人にとっては地球環境破壊はまだ「いつか」あるいは「どこか」での不安でしかない。
地球温暖化にしても、紫外線の増大による皮層がんの増加も「いつか」先のことであり、熱帯林の広範な破壊も砂漠化の進行も「どこか」別の国の出来事でしかない。
地球の各地を夢中で走り回っているうちに、いつの間にか90カ国近い国々を訪れていた。
各地の環境の破壊や汚染、さらにこれによって引き起こされた被害の現状を目撃するにつれ、すでに地球の破壊が決定的な段階にきていると確信するようになった。
400万年の人類の歴史で、その活動が地球を脅かすほどに爆発的に広がったのはわずか過去数十年のことである。
この影響が、森林にも乾燥地帯にも、海にも河川にも、そして気象にまでも顕著になってきたのが現在である。
それは、一見して相互に関係のなさそうな自然災害の多発、森林の枯死、野生動物の大量死といった形をとっているが、その背後に隠された「警告」の持つ意味は重大だ。
私が最初に地球環境の現実を報告した『蝕まれる地球』(朝日新聞社刊)を出版したのは、地球規模の環境が話題になり始めた1979年のことだった。
それほど、この10年間の環境悪化の進行はあまりに激しく、結局、全面的に書き改めねばならなかった。
今回もここでは、最新の情報と私自身が現場で目撃した事実を盛り込んだつもりである。
大興安嶺の大山火事史上最悪の森林災害中国の北の辺境、大興安嶺山脈で1987年に発生した山火事は、黒竜江対岸のソ連側にも飛び火し、北海道に匹敵する面積を炎がなめつくす史上空前の山火事だった。
これまで中ソ両国ともにその詳細をほとんど公表していないために、断片的にしか分からなかった。
最近になって、『長征』などの著書で知られる米国の著名なジャーナリスト、H・Sのドキュメンタリー『黒竜江の大火災ll中国のインフェルノ』や北海道自然資源研究会(会長、辻井達一・北大教授)の調査報告書『中国大興安嶺の森林と火災』、国連の援助機関「世界食糧計画」(WFP)の報告などによって、最悪の環境災害であったことが次第に明らかになってきた。
1987年5月6日、火事はちょっとした不注意から始まった。
その主役は北京から200キロほど北の河北省に住む王玉峰(当時18歳)である。
春休みを利用して、古蓮のいとこの家へ遊びにきていた。
だが、帰郷の日が迫るのに帰りの汽車賃がない。
それを稼ぎ出すために、いとこの紹介で近くの大興安嶺の森林の伐採現場でアルバイトをすることになった。
一週間ほど雑用をした後、割り当てられた仕事は下草刈りだった。
一・5メートルほどのパイプの先に取りつけた円盤状の刃が回転する草刈機を与えられた。
午後の仕事を始めて一時間半ほどたった5月6日の午後3時40分過ぎ、燃料が切れたので持ってきた予備のガソリンを草刈機に注入した。
そのときに、ガソリンを入れ過ぎたためにまわりにあふれ出した。
王はそのまま、エンジンを始動させるひもを引いた。
その火花で、草刈機や地面を濡らしたガソリンに火がつき、あっという間に、枯れ草に燃え広がった。
周辺にいた森林労働者があわてて消そうとしたが、火は森林の中に広がっていった。
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